オネーギン、雑感1

原作を読み返してみました。

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)

オネーギン (岩波文庫 赤604-1)

以前読んだ時はあらすじだけ追うみたいに読んでいたので、あまり記憶がなかったのです。で、感想として、この原作(と言ってもプーシキンの韻文体のものを散文訳にしてあるものを読んだので正確に原作の持っている雰囲気を味わえたかどうかは不明)とバレエ作品としてのオネーギンは別のものとして考えた方が良いのかもと思いました。もちろん、あらすじも登場人物の性格も場面設定も原作にほぼ忠実なのですが、いくら物語バレエと言っても、ダンスという制限のある表現形式で伝えてくことのできるものは文学とは違うのもです。バレエ作品は物語として見てしまうとたくさんの矛盾を感じてしまうのです。
オネーギンの性格や人物背景、決闘に至るまでのプロセスと回避できなかった事情、タチアナの心情の変化(成長)など、バレエ作品だけ見ていてはやはり充分な理解は出来ないと思うのです。でも、そういう細かなことの理解は出来なくてもオネーギンというバレエ作品を充分味わうことはできると思います。というのも、オネーギン、タチアナ、レンスキー、オリガなどの登場人物の性格づけがはっきりしていて、演ずるのは難しいかもしれないけど、ダンサーとしては腕の見せ所が沢山あるわけです。クランコの演出、振付とも上手くできているので、重要なシーンが作品の中で象徴的に扱われています。
オネーギンとレンスキーの決闘の前、タチアナとオリガの姉妹がレンスキーを止めるシーンがありますが、原作ではこの姉妹は二人の男の間で決闘が行われることを知りませんでした。メインキャスト達のダンスシーンとしては見どころの一つですが、見ようによっては陳腐なわけです。頭の良いタチアナですから、オリガを誘惑したオネーギンの行動の奥にタチアナとのことがあるということに気が付いても良さそうなもんです。いくら周囲に知られたくないような事でも命にかかわる事態になったら事情を告白するでしょう。そしたら熱くなっているレンスキーも冷静になるだろうと思っちゃうわけです。どうもその辺がしっくり来なかったのですが、原作を読んだら、先ほど書いたように姉妹達は決闘の事を知らなかったわけで止めようもなかったということなのです。納得。えー、長々書いてますが、ようするにバレエ作品の場合は物語としての深さよりやはりダンスとしての表現に重きが置かれているということです。
タチアナはオネーギンを本当に愛していたが、気高く伯爵夫人としての操を守ったロシア女性の理想、というのが定説?らしいんですが、この辺りも言葉にしてしまうとかなり陳腐。オネーギンとタチアナが田舎の領地で顔を会わせたのはほんの数回だけだったようだし、一目ぼれ状態の乙女がふられて、数年後に再会した初恋の相手を今度は拒絶したというだけの話だったら、別にドラマティックでも何でもないわけですよ。この辺りの私の?に応えるくだりが原作にはありました。友人を決闘により殺してしまったオネーギンは自分の領地を離れます。タチアナは主のいなくなったオネーギン邸を訪ね、オネーギンの残した書物を紐解いていきます。そしてタチアナはオネーギンという人物を理解していくのです。最初、オネーギンの書斎でさめざめと泣いたタチアナは、賢明なことに想い人の書物からその人物像を恋の炎の下ではなく、理想化せずに理解していくことができたわけです。個人の蔵書ってある意味、その人の頭の中みたいなものだと思うのです。私は自分の書棚を見られるのがとても恥ずかしい。嗜好ばかりでなく、人間の質みたいなものまで判っちゃいそうな気がするので。
オネーギンという人物を理解することができたから、タチアナがオネーギンを愛するということも、愛していながら別の人の妻となる人生を選択したということも、同時に成立しうることだったのです。ですから、オネーギンの求愛を断ったことも彼女の中では再会する前から決まっていたことだったと思います。でなきゃ、タチアナは結婚しなかったと思う。ただ現実にオネーギンが現れちゃって、おまけに狂ったように求愛してくるというのは想定外だったと思うケド。タチアナはオネーギンより人格の核がしっかりしてぶれない強さを持っているけど、オネーギンは違った。やっぱり変人だったわけで・・。一段一段、破滅の階段を降りていくかのようです。だからいっそう哀れで、脆い虚栄心の中でバランスを崩していくオネーギンの人物像が私には大変魅力的です。悲劇好きなもんで。
バレエ作品では、手紙が効果的に使われているけど、原作での手紙は少々意味合いが違います。バレエではオネーギンはタチアナの手紙を破いて返すけど、原作では、オネーギンは大事に彼女からの手紙を取ってあります。田舎での出会いの頃からオネーギンはおそらくタチアナに魅かれていたのです。ただ変人オネーギンは頭でっかちで自分が田舎の小娘を相手にするワケがないと思い込んでるんですね。素直じゃないと幸せになれませんことよ。
原作との違いばかりになっちゃってますけど、年齢設定も違うみたい。オネーギンは田舎の領主になったのは20代前半のようです。レンスキーは16〜17歳。レンスキーと決闘して旅に出てモスクワ(バレエではサンクトペテルブルク)に戻ってきたのが26歳ってことらしいですから、3幕のオネーギンの老け方は極端ですねー。まー、でも年月の経過と心情の変化を視覚的に表しているんでしょうね。確かに老けてた方が、ラストの哀れみが増しますから。
だらだら長くなっちゃいました。原作を読み返して、主人公たちの理解を多少なりとも深めた状態で、またまた舞台が観たくなりました。私が想像するところのオネーギンは20代の若者だとしたら、ニヒルな皮肉家だとしても、頭でっかちで人生を解ってしまったかのように勘違いしている夢想家です。若さというきらめきがあれば許されることもそろそろ鼻につくお年ごろ。自分を哀れんでばかりいたとしたら、オネーギン君、かなりヤバい大人になっちゃうね。でも、色々考えてたら私はけっこうオネーギンが好きみたいです。
Tchaikovsky: Onegin

Tchaikovsky: Onegin