オネーギン、雑感3

前回、オネーギンの感想を舞台を思い出しながら書いてみたんですけど、1幕分を書いたら結構長くなっちゃって全部書くのが大変なことに気付き早くも挫折です。でも、書きながら、考えたことがあってそれを今日は書こうかな、と。
エルヴェのオネーギンが、とにかく美しかったこと、それだけで何やら満たされる自分がいて、この美しいということについて考えてみたのであります。
エルヴェ自身がその事に気づいているかどうかは分かりませんが、彼のオネーギンはその美しさ故にオネーギンたり得ていました。彼の演技は特別シニカルであったわけではないように思います。もちろん、ちょっとした表情とかが冷笑に値したり、2幕のタチアナの日の舞踏会の場面では、苛立ちと憤慨の表情に人を寄せ付けない冷ややかな孤独を感じさせるものはありました。しかし、それは人生に退屈してしまった男の冷酷さではなく、自分だけを愛した哀れな男の姿でした。哀れ、というと情けなくって見栄え悪いように思うかもしれませんが違いますよ。何ともうっとりと陶酔させられるのです。と、同時に冷たい表情に拒絶の色を濃く感じました(背筋が凍るような思いすらしました)。これは、彼の美しさがなければできない表現のように思います。哀しき自己愛の表現です。しかもとびきりのヴィジュアル系?で。
原作を読んで感じましたが、オネーギンは大変自己愛の強い人間です。仕度をするのに3時間も鏡に向かっていたというのですから!元々自己愛の強い人は傷つきやすい面があって周囲の人達も無意識にそれを感じ取ってしまい、自己愛を傷つけない行動を取って行くパターンがあります。そのまま成長すると自己愛が強化されて特異な性格と行動、思考傾向が出来上がるのです。そんな自己愛人間であるオネーギンに、身勝手で変人で困った人なのだけれど愛すべき魅力を感じるのは何故なのか。
個人的には、自己愛人間でも美しかったり特別な才能のある人達は魅力的だと思っています。才能故に性格が歪むのですから。ナルシシズムの語源でもあるナルキッソスの物語も、ナルキッソスが美しいから物語として成立するのです。これが単なる一人よがりだったら、見るにも聞くにも耐えられません。
色々考えていて、このオネーギンというバレエ作品もこの辺りが重要に思えて来ました。自己愛のビジュアル化が成功するか、演者固有のキャラクター作りが成功するかなのではないかと。エルヴェは前者、ニコラは後者、ルグリは両方に当てはまるように思います。そう考えるとルグリのオネーギンは秀逸です。私がこれまで見たシュツットガルトのバランキエヴィッチは前者、でも既に後者の趣もある。レイリーは後者に当てはまります。
自己愛のヴィジュアル化に成功するのはダンサーの持って産まれた資質によるところが大きいので、この方法が取れるダンサーの方が限られているように思います。美しいということではマチューも当てはまるのですが、彼の個性ではあのナルシシズムは出ないように思ってしまう。シニカルな憂いが必要なのです。もっと年齢を重ねたら可能かもしれません。
自分としては、この自己愛のヴィジュアル化ということ観点に気づいたことで、オネーギンの役どころの理解が腑に落ちた思いです。
本日発売のダンスマガジン7月号、P34、35にヴィジュアル系オネーギンの姿が掲載されておりますよ。必見です!